序章 黎明期

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1922

序章 黎明期

2 大阪商船の躍進

船出をした大阪商船であったが、当初は老朽船が多く、開業当初の経営は決して容易ではなかった。そのため1888(明治21)年から向こう8年間、年額5万円の助成金の交付を受け、さらに郵便航送料として同期間年額2万円が支給されることになり、大阪商船では船舶の改良や新造船の建造に努めた。その後、瀬戸内海および九州航路に加えて1890年に大阪―釜山間、1893年に大阪―仁川間を開き、日清戦争後は日本郵船と並ぶ二大汽船会社として日本海運界で確固たる地位を築いていった。

1896年には大阪―台湾間を開いて近海航路で著しい発展を遂げ、日露戦争後は遠洋航路にも進出し、1918(大正7)年12月には横浜―ロンドン間を開いたが、大阪商船がさらなる発展を遂げたのは中橋徳五郎が4代目社長に就任して以降である。中橋は大阪商船に入社する以前は逓信省鉄道局長という要職にあったエリートであり、3代目社長であった田中市兵衛の娘婿であった。田中のたっての望みからこの転身を受け入れたのだが、一方で「わが国の地理的地位から考えても、欧州の先進国と角逐することができぬようでは、わが国の前途はダメである。僕がやる以上は、数年を出でずして、必ず相当の会社にしてみせる」との強い決意を隠さなかった。

中橋は入社後、機構の改革を進める一方、優秀な人材の確保にも努め、旧帝大や東京高商(現一橋大学)出身の人材を積極的に採用し、人事の刷新を図った。こうした人材を中心に急速に会社を近代化させ、大阪商船の黄金時代を現出させた。第一次世界大戦以降はその好機に乗じて遠洋、近海を問わず、各航路で大きな発展を遂げ、世界の海運界においても確固たる地位を構築するに至った。

こうした大阪商船の発展が当社設立の道を開いていくことになる。