第1章 草創期

1923

→

1944

第4節 戦時下での事業展開

2 統制下での貸ビル事業

1937(昭和12)年7月、北京郊外の盧溝橋事件をきっかけとして始まった日中戦争以降、戦火は次第に拡大し、わが国は戦時体制に入った。1938年には国家総動員法が公布され、動力、労力、物資、資金、施設などがすべて戦争遂行目的に動員されたため、ビルの建築は事実上不可能となった。さらに1939年10月18日に地代家賃統制令が公布され、これによって貸室料は凍結され、多くの貸ビル業者の経営を苦しめることになった。日本ビルヂング協会は適用の緩和を求めて陳情を重ねたが、厳しい国際情勢のなかで黙殺され、凍結が解除されることはなかった。

  • 日比谷ダイビルの金属供出風景

そうしたなかで当社は貸室増強対策に取り組み、ダイビル本館南側中食堂と食堂別館の改造および車庫としてタクシー会社に賃貸していた西別館の改造による増室を行った。また、1944年には解散した大ビル倶楽部の集会所を貸室に改造した。

1941年12月8日の真珠湾攻撃によってわが国は米英両国と交戦状態に入り、戦争はさらに拡大した。これによって大阪のダイビル、東京の日比谷ダイビルに入居していた多くの外国公館や商社が退室することになり、大きな影響を受けた。

戦況の悪化によって物資が不足してくるとその影響はビル業界にも及んだ。1941年8月30日に公布された金属類回収令にもとづき、金属類の提供を余儀なくされたことである。ダイビルでも1943年9月、客用エレベーター5台、日比谷ダイビルでは同年12月に4台を供出した。そのほか、真鍮製のドア・ハンドルやドア・チェック、鉄製窓台、暖房用ボイラー、ラジエーター、冷凍機、ポンプ、パイプ類まで供出した。

さらにダイビル地階と1~3階が軍部によって強制的に徴用され、工場として利用されるという事態となった。

当社はこうした苦難と闘いながら、1945年8月15日の戦争終結を迎えた。