第1章 草創期

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第3節 東京進出

3 2号館の開館

日比谷ダイビル1号館の完工と東京支店の設置後、ただちに東側隣接地に2号館を建設する計画を開始した。1929(昭和4)年6月28日、渡辺建築事務所に2号館の新築設計・監理を委託する契約を締結し、同年7月15日には大林組と特命発注による新築工事請負契約を結んだ。金融恐慌以来、厳しい不況が続くなかでの果敢な決断であった。

同年9月12日に地鎮祭が執行され、9月14日に工事は開始された。原設計の変更など一部予定通りには進まなかったことで約5カ月の遅延があったものの1931年4月25日、日比谷ダイビル2号館は完工をみた。

鉄筋コンクリート造で地上8階、地下1階、軒高31m、延床面積1万592m2(3204坪)と1号館とほぼ同じ規模を持ち、両館は地下階では全面的に、1階では一部廊下を通じて接続された。これにより両館合計の延床面積は2万1634m2(6544坪)となり、日比谷ダイビルの全容が完成した。

耐震耐火構造であり、1号館と同じセンターコアシステムを採用した。外観は奇抜な垂直の線を強調し、1号館の重厚感あふれる印象と好対照をなしていた。外壁には1階と2階の一部を富国石張りとし、2階以上を1号館と同様に焦げ茶色のレンガタイル張りとした。さらに最新式の換気冷房装置を設置し、地階から6階まで全室の完全冷房を実現した。

1931年5月1日、日比谷ダイビル2号館は「夏は冷気、冬は暖房、サービス第一主義」をキャッチフレーズに開館した。不況の風が吹く厳しい情勢下での開館であったため、開館5カ月後に新規入居者と1号館からの転入者を合わせて有効面積7112m2のうち3574m2しか埋まっておらず、1・2号館合計では入居率は59.9%にしか過ぎなかった。

2号館開館当時の主なテナントは大阪商船、レインボーグリル、日本電力、大阪海上火災保険、文藝春秋社、住友銀行のほか、あらたにソビエト通商部(当時)、パラマウント映画、メトロ・ゴールドウィン・メーヤー、ウェスタン・エレクトック(1995(平成7)年に消滅)、日本プランナーモンド、その他の外国商社であった。

日比谷ダイビルは厳しい経済環境下での出発であったが、1930年代後半にはほぼ満室状態となった。