第2章 復興期

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第1節 戦後復興

3 ビル諸設備の修復と貸室料の制限解除

当社のビルは戦時下の空襲によって直接被害を受けたわけではなかったが、影響は決して小さなものではなかった。金属類回収令によってエレベーターや冷暖房装置は撤去され、ビルとしての機能は著しく低下していた。またダイビル新館外装に施された迷彩や焼夷弾の投下による傷跡は痛々しい印象を与え、工場に転用されたことで破損し、軍靴によってリノリュームも踏み荒らされていた。

そうしたなか、戦後のインフレと物資不足のなかで懸命の修復作業を行った。まず共用部の塗装から開始し、ドア・ハンドルとドア・チェックの取り替え、リノリュームの張り替え、窓ガラスの修復などを順次行い、終戦後1年余りを経過したころにはそれなりの修復を終えた。

その後も資金面や物資の調達面で苦労をしながら完全な復元を目指し、1949(昭和24)年4月に新館のエレベーター1基、翌1950年7月には本館のエレベーターを1基復旧させ、残り3基についても同年11月に復旧を完了した。新館暖房設備は1950年10月に完備し、その年の暖房に間に合わせた。これらと併行して室内の塗装、外壁の迷彩の洗い落としを行い、ダイビルの戦時色を一掃した。

戦後は生産力の低下と物資不足によって極度のインフレを招き、諸物価は高騰を続けた。にもかかわらず貸室料は戦前に制定された地代家賃統制令によって依然として統制され、貸ビル業者を苦しめていた。1946年9月28日に改めて地代家賃統制令が公布され、10月1日から施行されたが、その適用は幾分緩和され、貸室料の値上げは都道府県知事に申請することで審査のうえで認可されることになった。

これを受け、当社でも1946年6月30日付で大阪府知事あてに「家賃(室料)増額許可申請書」を提出した。これは同年9月18日に認可され、基準階における貸室料は坪当たり9円50銭から2.5倍の23円75銭に改定されることになった。これにより当社の貸室収入は大幅に増加した。

なお、地代家賃統制令は1950年7月11日に改正され、ビルディングの貸室料は同法の適用を受けないこととなった。