第2章 復興期

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第2節 ビル建設の再開

2 新ダイビル南館の完工

1951(昭和26)年から買収を開始していた大阪・堂島の土地が1953年4月28日に接収解除になったことで、買収計画自体は継続中であったが、買収済みの土地でのオフィスビル建築計画に着手した。しかし、特需ブームが去った当時は景気後退期に入っていたため、1954年5月に新ビル建築計画を一旦は断念せざるを得なかった。とはいえ、4000坪にも及ぶこの地を遊休地のままとしておくことはできないため、そのうちの一部は紆余曲折を経て緑地公園となって大阪市に寄付され、後に堂島公園となった。一方、東部には野球場を兼ねた運動場が設置され、野球だけではなく遊戯ショーや見本市が開かれた。

新ビル建築計画が復活したのは、長期にわたる景気回復が始まった1956年に入ってからである。設計・監理を村野・森建築事務所に委嘱し、同時に完工後のテナントの募集にも取り組んだ。1956年8月23日、南館新築(第1期工事)を正式に決定し、施工を大林組に特命発注して同年9月28日に起工した。完成は1年7カ月後の1958年4月30日で、新大阪ビルヂング(後に新ダイビルに改称)と命名された。

主体構造は鉄骨鉄筋コンクリート造の耐震耐火構造、地上9階、地下4階、塔屋2階、軒高は31m、塔屋の高さは43m、延床面積は2万8177m2(8524坪)となった。外壁には壁面から後退した1階外柱を御影石で張るとともに柱列の間をショーウインドー型の外観とし、出入り口扉に耐久性のあるアーマードガラスを使用した。2階以上の外壁には白亜のタイルを使用した。エレベーターや冷暖房装置など最新設備を採用したのは言うまでもない。

1958年5月1日、新ダイビル南館は開業し、日本長期信用銀行(現SBI新生銀行)、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)、大阪窯業セメント(現住友大阪セメント)、旭化成工業(現旭化成)のほか、ニッポン放送や日本レミントン・ユニバック(現BIPROGY)、日新電機なども入居し、開館5カ月後の1958年9月末には入居率は93.1%に達した。